禅門食事訓 
           五観の偈
食事は生命の始まりと言ってもよい。食の乱れは健康を損ねるばかりではなく、家庭に於いては生活信条やその家の家風伝達の大切な場なのです。今日家庭が崩壊し青少年が乱れていく原因の一つは、健全な家族を象徴する健全な食事が為されていないことも否めない。信頼と温かい心を感じ合う食卓であって、初めて健全な家族と言えるのではないだろうか。
多様化した今、全員揃っての食事は殆ど不可能となっている。けれども完全に不一致ではないはずだ。團欒と同事に、大切な心の糧となる人生訓話などは決して外すべきではない。迷う心を支える者は、人としての道義に裏打ちされた、その人固有の健全な信念に拠るのだ。これが無いので道が分からず、途方に暮れて彷徨い続けて鬱病にもなる。まさに魂の世界である。これを育てるに両親祖父母に勝る適任者は居ないし、食卓に勝る場は決して無い。社会も学校も今や精神に関しては全くの不毛地帯である。
ここに掲げる「五観の偈」は、禅門で毎日敬虔に実践している食事訓である。不足気味な心の栄養素として、恐れることなく、躊躇することなく、一度静かに取り入れて頂きたい。
嘗ての日本家庭では、このような精神要素は自然の形で吸収し得る全体の様子があった。つまり餌ではなく、人としての品性と信義に満ちた食事観が有ったのである。それは伝統的に家族としての威厳と尊厳を態度と行為で示し、且つその家固有の人間観として両親が語っていたからである。
こうした栄養素の充分効いた精神の持ち主は、絶対に親に恥を掻かせてはならないと言う信念が育まれているのだ。信ずるに値する生き方をする。
誰しも我が子を立派な人に育てたいはずである。この五観の偈は、少なくとも食事に命を感じられるようになるだろう。そこを糸口にして日々の生活を見直し、少しでも向上を試みては如何かと思う。施行不備による子供の心には結して明るい将来はなく、時として家族供に地獄を経験する事になるだろうから。
食事は明るく、美味しく、そして有意義にしたいものである。
 
 
本文
 
  ● 五観(ごかん)の偈(げ) (食事訓)
 
(ひと)つには功(こう)の多少(たしょう)を計(はか)り彼(か)の来処(らいしょ)を量(はか)る。
  第一に、頂こうとしているこの食は、一体どれ程の人の手と時間  と自然の恵みに拠って出来た尊い物かを理解し感謝して頂く。
 
(ふた)つには己(おのれ)が徳行(とくぎょう)の全欠(ぜんけつ)と忖(はか)って供(く)に応(おう)ず。
第二には、自分は果たして是れを頂くだけの徳行善行をしたか否かを反省してから頂くこと。
 
(み)つには心(しん)を防(ふせ)ぎ過(とが)を離(はな)るることは貪等(とんとう)を宗(しゅう)とす。
第3には、囚われの心を解決し美しい真実の人に成るには、貪瞋痴の心を陶冶すること。
 
(よ)つには正(まさ)に良薬(りょうやく)を事(こと)とするは形枯(ぎょうこ)を療(りょう)ぜんが為(ため)なり。
第4には、食事は最善の薬である。修行するこの身体を枯れさせないための良薬にほかならない。
 
(いつ)つには成道(じょうどう)の為(ため)の故(ゆえ)に今此(いまこ)の食(じき)を受(う)く。
5つには、真実に修行し、真実の道を悟る為に今この食事を頂く。
 
  ● フ鉢(けいはつ)の偈(げ)  (食前の誓い)
 
上分三宝(じょうぶんさんぼう)。中分四恩(ちゅうぶんしおん)。下及六道(げきゅうろくどう)。皆同供養(かいどうくよう)
  上中下を問わず、全てに真実の供養をする。
 
一口為断一切悪(いっくいだんいっさいあく)
  一口を頂くに当たり、一切の悪をしないことを誓う。
二口為一切善(にくいいっさいぜん)
  二口を頂くに当たり、小さな善行もすることを誓う。
三口為度衆生(さんくいどしゅじょう)。皆共成仏道(かいくじょうぶつどう)
  三口を頂くに当たり、全ての人々を救うことを誓う。
 
  ● 折水(せっすい)の偈(げ)  (感謝の辞)
 
我此洗鉢水(がしせんぱっすい)
私は水一滴まで粗末にすることなく感謝して全てをいただいた。
如天甘露味(にょてんかんろみ)
美味しくて而もこの上ない満足だ。
施与鬼神衆(せよきじんしゅう)
食べられない運命の者達に分け与えた。
悉令得飽満(しっりょうとくぼうまん)
  全ての者に満足してもらえた。
?摩休羅細娑婆訶(おんまくらさいそわか)
この世界はこの上ない素晴らしく尊いのだ。
 
  ● 後唄文 (後辞)
 
処世界如虚空(ししかいじきくん)。如蓮華不着水(じれんかふじゃしい)
住んでいるこの世界は無相なのだ。心は蓮華葉上の水玉の如く汚れず自在なのだ。
心清淨超於彼(しんしんじんちょういひ)。稽首礼無上尊(きしゅりんぶじょうそん)
心は元もと清淨にして一切を超越している。これ以上尊いことはないではないか。
  
提唱
 
 ● 五観の偈 
 
[一つには功の多少を計り彼の来処を量る。]
 毎日の食事を頂くに当たり、先ず第一の心得がある。素直になって目前の食事その物の由来を思惟してみること。お金が米を作り水を作るか。そんなことがあるはずがない。お米はどうして出来たのか。春の水も未だ冷たい頃、お百姓さんが朝早くから田圃に出かけて苗床を作り、籾を蒔いて育苗をする。その間に田圃を耕して田園にする。そして水を張った田に育った苗を植え付けていく。毎日毎日水張りを欠かさず、真夏の炎天下に雑草を取り消毒をして子供のように見守り育てていく。水が涸れた時は井戸からも川からも汲み上げ配水する。電力も使い、風力も水力も使って努力する。そして秋、たわわに実った稲を見て喜び、汗しつつ刈り取り脱穀する。太陽が無くても水か無くても育たぬ物。ましてや人の愛情と労役無くして有ろう筈がない。
 それは全て天地自然の恩恵と、お百姓さん等の従事者による絶大な恩恵の集塊物である。店頭販売に及ぶには、まだまだ手間暇無くしては有り得ない。
 店頭の米がどうして食べられるご飯になったのか。思い千万である。買入し米をとぎ炊飯器にセットする。時節熟してご飯となる。何の思量をか労せんと雖も、その作用を為すに水又電力を以て要す。如何せん人の知らざる様態、自然又社会の恩恵十重。
 是れお米一つ、かすかな思いを馳せたに過ぎず。食卓全ての食物は、是の如くして成る。そして家族の健康と幸せを祈り、美味しいと喜んで食べて貰うことを楽しみに調理をする作者。是れを知り、是れを思わば誰か不平を言わんや。
 これら神仏の恩恵と感得する時、自ずから感恩せざるはなし。感恩は真実の恩徳を知ればなり。人皆仏心有るが故なり。この心無くんば如何せん、未だ尚畜生と同じからずや。故に真実の喜び幸せを得ること無し。
 道元禅師は、「一つぶの米は眼睛だ。自分の目玉と同様に大切に扱え」と。また曰く、「杓底一残水。流れを汲む千億人」と。道元禅師は杓の残水を川に返されていた。いぶかって僧が問うた。このように水量豊かな川なのに、どうして僅かな水をお返しになるのですかと。師曰く、「川も水も自然の物故に限りがある。しかし人は何時までも存続し繁栄して欲しい。その為にこの川の水は幾千万億の人達が使う大切な物だ。それ故に自分一人が勝手気ままに使い尽くす訳にはいかない」と。永平寺の山門を入った両側に佇むこの句の石柱は、今の世相を既に慨嘆しているかのようである。古徳の教えは心血であり、人類が健全に存続するための道標である。誰か是れを軽々に出来ようぞ。
古道や 行く人無しに荒れ野かな
 かくして資源は枯渇し自然は崩壊して全人類絶対不幸を招く。たかが食事と侮れば、心は荒れ地となり道が分からなくなって、救い無き茨の世界へと突入することになる。これ仏無きに非ず、神無きに非ず。只心の濁れたるのみ。心は行によって道となり、道によって光となる。
 
[二つには己が徳行の全欠とはかって供に応ず。]
 是の如く尊い食事を頂くに当たり、是れを頂く資格がどれ程あるか。自らを深く反省してみた時、自らの不徳を知る筈である。少なくてもこうした自覚を以て頂くのが健全な人間の姿ではないか。真摯に己を省みる誠実さが有るか無いか。これを先に問われているのである。この精神こそが道であり目標である。この心で作用すれば全て徳行である。食事をするに当たり、深く反省し己を省みれば、自ずから身を慎み行いを謹むようになる。常にこの心を大切にすれば、自ずから仏作仏行と現成し徳行を増幅する。供に応ずるに何ぞ憚ることあらん。喰らうに口無く、口に食無くんば何の徳行全欠をか問わん。
 
[三つには心を防ぎ過を離るることは貪等を宗とす。]
 徳行とは善行です。道のために道を行ずる事です。汚れのない素直な心で為された行いは全て徳行です。しかし隔てが有る為、相手を認めてしまい、それに依って心を汚すので、徳行にならないのです。それが癖着いているから困るのです。この癖により貪瞋痴の煩悩となるのです。この心の癖を陶冶するのが仏道修行です。私達の目的であり理想です。「心を防ぎ」とは貪瞋痴となる癖を陶冶することです。汚れや迷いから離れることです。これが「過を離るること」です。要するに身心一如になり隔てを取る事は、貪瞋痴を根源から解決する事なのです。
 では、貪(貪り)瞋(怒り)痴(愚癡)などを煩悩の代表としていますが、そうした心はどうして出来たのか。それを解明しておきます。
 単細胞がこの地球上に現れた瞬間から始まった、生命進化の歴史そのものです。生命を維持する為に環境変化に対応しつつ、自らをも変化させて人間への進化を得た。地球上のあらゆる処に生息しているのは人間だけですが、これは際だって進化した頭脳により、文明を形成したからです。
 今日迄の進化を得る為には、生き長らえて種を継続させつつ適応力を増したことにあった。ただ生きると言う営みは一切の生物も同じことです。生きる為に弱者を捕食し、又強者の捕食の対象にもなっていた。まさに弱肉強食そのものが進化でした。不安や恐怖心などと供に、警戒心は恒常的に保持する必要があったし、猜疑心も疑心暗鬼も、貪りの心も怒りも憎しみも愚癡も、命を守り身を守る為に自然発生的に生まれたのです。今日の文明社会に於いてテロや戦争など、残虐にして獰猛な行為に及ぶのは、何億年の長い弱肉強食時代の間に、疑心暗鬼と天敵本能と恐怖観念が一体となって構造化したためです。存亡に関わる危機的状況と感じた途端に、その本能が忽念と機能して動物化するからです。如何に高い知性と教養が有っても、民族が滅ぼされると感じた瞬間、恐怖感は忽ち天敵本能を刺激する。そして臨界線を越えると身体化現象して行動を起こす。やられる前に殺らなければ大変な事になる、と成るのです。テロも戦争もこう言う因果関係があるのです。この精神は全て過去世の業に起因しているのです。
 又種が繁栄する為には、一層強くて優秀な種を、自然淘汰の形で選んできたのも事実です。雌雄を決して相手を獲得し、そして自分の兒孫を遺したのです。嫉妬や羨望や恨み、そして仕返し等の心も種同士の争いも、そうした経緯によって形成したもので、善悪以前の生命維持の原則に従って発生したものです。この事は、自己の保全と同時に種を守る為の本能となったのです。命懸けで子供を守る親の愛は横へ広がって民族愛となり、縦の愛は親子同族関係の愛情となったのです。強烈な子育て本能とはこうして出来上がったのです。
 我が子に対する絶対愛は、種の執着でもあり本能です。それらが今日的にまで高次化し定着したものが父性本能であり母性本能です。我が子の為にはなり振り構わず、何者をも恐れず厭わず、全身を全挙して守ろうとする親の愛情は素晴らしいし尊いものです。元は天敵から守ろうとする種の保存本能に拠るものです。従ってこの動物的な愛は、時に排他的になったり攻撃的になったり、自己中心的で相手を認めず社会問題にもなる両刃の剣なのです。理性以前に種の保存本能が一瞬早く心を動かし作用した瞬間から本来の自由で美しい心は失われてしまうのです。過去の見えざる支配力に翻弄され囚わた瞬間に、心の自由と純粋公平さを奪われるのです。正に健全な精神を汚す元は、今今、瞬間瞬間の心の様子によって決まるのです。
 私達が生き物である以上、数十億年の過去世の業は誰にも存在しているのです。時として理性よりも意志よりも、強烈且つ素早く機能し作用する為、理性も意志も間に合わないのです。囚われ暴走するそうした過去の業心を律することが出来ないが為に、しばしば問題が起こるのです。
 又、危機に瀕した時、もしも子供や奥さんより自分が大切で逃げ出したとしたら、それは未だ次世代を育むまで成長していない証拠であり、父性本能・母性本能が充分に機能するまで成長していないと言うことです。要するに子育て本能・育児本能が発露していない未発達段階なのです。
 生まれてきた天然の子供は全く天子そのものです。親を絶対視して疑うこともしないし、差別も無視も搾取もしない。それ以上の善を為すこともなく又一切の悪を為すこともないのです。それは損得善悪取捨自他の観念や囚われがないから、心は自由であり清純だからです。ですから私達の本来の心は誠に純粋であり有りの侭です。そしてこの汚れの無い精神が、最も大切な信ずる心となり愛情となり、信頼尊敬となって人生を荘厳にするのです。
 こうした素晴らしい精神要素も、又醜くて危険な心をも携えた存在が我々人間です。 だから両極の作用を具備している通常の侭の精神は、常にその時その時の環境に反応する為に、決して安定していない根源的な理由が有るのです。それ故に自分にも他人にも信ずる心が不安定であり、根底に両極相を秘めているので、自信も信念も勇気も正義感も脆弱なのです。これでは真に安らかな状態ではなく、普通の生活上に於いてさえ内より起こる不満や不審や疑義の感、嫉妬や羨望や怒りが心を常に不健全にしているのです。これが社会全体どろどろとしている理由です。一人々々が不気味な要素を携えていてしかも不安定であれば、常に何処かで諸悪が発生しても当然です。
 このように人間の苦しみ迷い、惑乱葛藤は過去世から引きずっている心の囚われに拠るものです。これをどのようにしたら解決し超越することが出来るのだろうか。ここが世界平和の決定的絶対根源であり、私達一人々々の人生の安らぎと満足と歓喜をもたらす唯一のキーポイントなのです。
 徳行を積むには、これら自分に纏わる内的な拘り(貪瞋痴)の心を捨てて、今、清浄で美しい心のままに行為すれば、それが徳行です。
 過去でもなく未来でもない、絶対瞬間の今に目覚めることです。永遠の今、生まれたばかりの純粋の今、汚れも囚われもない絶対今が本当の世界なのです。この本当の今の世界が神仏の世界であり命なのです。この事を教えているのが仏道です。私達の本来の心は、本より汚れても居ないし囚われても居ないのです。只、身と心とが隔たって自我となり、執着する癖を付けてしまった為に、自分の心に自分が囚われて居るだけです。そこで今を大切にし、今の現実を心静かに誠意で対応するのです。そして執着しないように努力することです。
 この食事は神仏の恵みですから、神仏の心に従った頂き方をすべきなのです。大切な食事を頂くに当たり、決して不満や貪りや愚癡や拘りの心を起こすことなく、感謝と満足と向上心の真心で素直に頂くことが大切なのです。食事は掛け替えのない仏作仏行なのです。命の糧である食事さえ真心で頂けないような人間が、どうして神仏のご加護を得る事が出来ようか。慎みと真心と努力が神仏への道なのです。
 よくよく反省し、心静かに真実の心で頂けば、自ずから真実の人に成るのです。
 
[四つには正に良薬を事とするは形枯を療ぜんが為なり。]
 私達は知らずして生まれ、親の限りない愛情を身一杯受けて成長しました。私達の親は、常に私達の幸せだけを祈りながら育ててくれました。健康と賢明なる知性と、岩をも貫く信念で正しき道に生きる強靱な意志力を持った人間になれと。又誰からも大切にされ愛されるような健全な人格を持った人間に育ちますようにと祈り、そしてそのためならどんな苦労も厭いませんからと気高い誓いの本に私達を育んでくれたのです。
 気が付いてみると、こうした計り知れない多くの尊い恵みに支えられて成長したのです。こうしたご恩を頂いた限りは、少なくても人として恥ずかしくないように、美しく汚れのない人生を志すのが普通です。こうした日常の正しい信念こそが本当の道であり信仰なのです。その為にはどうしても生きて、そして心身が健康でなくてはなりません。
 生きる為には食事は不可欠であり絶対条件です。命を守る何よりの薬が食事です。この身体を健康に保つ為の最高の薬なのです。だからといって貪れば貪瞋痴となり畜生道に落ちるので、栄養と衛生を考えても決して贅沢を願ってはなならないのです。私達人間にとってかけがえのない大切な食事は、道を悟る為に、この身体が枯死しないように、必要だから頂くのです。
 世界中には一日一食でさえ満足に得られぬ人達も沢山居ることを忘れては成らないのです。そして私達みんなが努力して、必ずみんなが充分に食べられるような世界にしなくては成らないのです。この遠大で大きな理想の為にも正しい道を悟らねばならないのです。その為には正しい修行をしなければなりません。修行の為には三度の食事が出来なければ二度で良いのです。二度が出来なければ一度でも良いのです。その覚悟で修行すれば決して我が侭や贅沢は願わぬものです。この努力があれば既に純粋であり囚われもありません。真実の悟りを得ることは間違いないのです。
 
[五つには成道の為の故に今此の食を受く。] 
 成道とは悟ることです。悟るとは身と心の隔たりを取り、真実の道に目覚めることです。隔たりが取れ身心一如になると、真実の今の世界が明らかになるのです。真実を眩ましていたものは自我であり囚われです。隔たりです。隔たりが有る限り物と隔たり、人と隔たり、今の現実と隔たって対立するのです。この隔たりが自我となり拘りの元となるのです。隔たりを取ると宇宙と一つになるのです。今此処、是れが宇宙です。今、この事実の侭に隔てが無ければ即宇宙です。この一つぶ、この一瞬を除いては宇宙は無いのです。宇宙とは全てであり一つです。今であり過去も未来も今です。何故なら、今が過ぎたものを過去ですが、矢張り今だったのです。未来は未だ来ない今です。今が原因となって次の今を形成するのです。これを未来というのです。過去現在未来と言う時間観は、人間が横から眺めて情報化した観念の存在です。究極の真実である現実は今しかないのです。今は始まりも無く終わりも無い絶対世界です。常に今今です。しかもこの一瞬の今は即消滅して無いのです。無いながら常に有るのが今です。今は絶対に有りながら絶対に無い世界です。無常の流転である宇宙の命はだから絶対なのです。今今、只縁に応じて活動し止むことはない永遠の命が宇宙であり今この世界です。今が全てを生み出している永遠の命です。是れが神であり仏です。
 隔てが無くなると全てと一体、宇宙と同事ですから神仏と一体です。だからその外に神も仏も無いのです。是れを成道と言い成仏と言うのです。是れが悟りです。解脱とも脱落とも無我とも言うのです。この確かな道を体得し自覚する為に修行するのです。普遍の真理を体得する道が修行です。簡単に言えば隔てを取ることです。今に成り切ることです。
 若しその外に神や仏が有ったら、それは身と心とが隔たっていると言うことです。それだけ不純物があり真実ではないのです。何故なら意識された神仏とは、自己を運び観念を操作して神仏を想像で作り上げたものだからです。その不純物の為に真実の神にも仏にも隔たってしまうのです。
 今、食事を堂々と頂くのは、この宇宙の大真理を体得する為であり、先ず自分の隔てを取り本当に自我の迷いから救う為です。そして真実の道をみんなに知らしめ悟って貰う為です。そして等しく平安に、堂々と人生して貰う為です。私達は道のために生き、道の為に食事をするのです。この食事は宇宙の命です。全てを救い、且つ活かす食事です。この食事は、全人類、そして全宇宙が真実であり既に救われている、この真実の道を体得する為に頂くのです。如何に贅沢をしても、道を成就しない限り貪瞋痴の猛毒に苦しみ、そして悶えて死ぬのです。この道は永遠の命です。死んでも死なない命です。それが本当の「今」であり「道」「法」です。この道を体得して、みんな等しく安楽に暮らしたいものです。
 
 
 ● フ鉢の偈  (食前の誓い
 
[上分三宝。中分四恩。下及六道。皆同供養。]
 私達人間のみならず、生きとし生けるものは須く食さねばならず、出さなければ死にます。生を営むとは、それが先ず出来ることでありそれが原点です。それを得られること自体が生きることです。しかしこうした生き方は単に生きているに過ぎず、徒に時間を費やして動物的に過ごしているだけと言うことになるのです。
 人として大切なことは、道を知り、自分を本当に知ると言うことです。それが何故尊いのか?
 本当に知るとは、事の自覚です。食事一つの存在がどれ程の物なのかが分からなければ、感謝も報恩も出来ません。それが出来ないようであれば、それは本来の人間ではないのです。それをいただく自分。その事の自覚が得られぬのは当然です。
 だからいただく時は、いただく道として報恩感謝が先ずなけねばならないのです。
 報恩感謝は道の根幹です。道を以てするに仏法僧あり。仏は三界の大導師。法は一切の苦厄を癒す薬。僧はそれを伝え導く導師。故に是れを三宝というのです。是れ無くしては本当に救われる道は無いのです。故に最上最尊として伝え、断絶しないように大切にしなければならないので上分とするのです。それだけではない。
 天地自然、国土国家、先祖父母、社会衆生に拠って生まれ育ち生活することが出来る。是れに拠らずと言う者はないのです。これを四恩というのです。衣食住も個々の尊厳も名誉も安全も、上下を分かたず皆公平に恩に浴し、人権が保証されているのです。今や電気一つ止まっても大問題です。それらに従事し、任を全うしている人が居るから高度な便宜を得ているのです。実に尊いことです。この社会はこうして一人として無駄な人は居なくて、全てその時その場が有り、その人とその物や関係が有って、それが為されているのです。言うなれば根本は一つ物の分かれです。仮に自他があり、人と物と異なり、昼と夜と、天と地と作用を異にしているだけで、この全ての縁を四恩と言うのですが、元来分けられないし決められないものです。決められないが、今、このようにちゃんと有ることは、全てこの四恩に拠るので、感謝と同時に供養を忘れてはならいのです。
 本当の感謝が即供養です。有りの侭の真実に感謝することです。真実ならぬ物も、真実ならぬ時も無いのです。隅から隅までです。これを「下及六道」と言うのです。到らざる処も有らざる処も無しと言うことです。六道とは地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上に分けていますが、全て心の様です。偏り囚われて罪を為し、苦しみの世界に居たとしてもです。心は有って無い物であり、無くて有るものです。本来が無自性空ですから、だから道を知り、報恩感謝し努力するのです。
 ここに天上界が迷いとして有るのも面白いでしょう。普通天上界とは迷いや苦しみが無く、楽しいばかりの理想的な世界としています。ところがそんな安穩とした世界にはまり込むと、真実と言うものが立たなくなり、努力も忍耐も希望も発展も無くなってしまう偏った世界故に、迷いの世界なのです。幾ら楽しくても、良くても、それが実体のない虚無なる仮の様子だと言うことが分からねば、やはり夢事なのです。歓楽極まって哀情多し、とあるでしょう。何でも一方に偏したり囚われると道が分からなくなるので六道に落ちるのです。
 逆に真実の心であれば、それ自体が感謝であり供養であり、全てを癒し救いになっているのです。それ程大きな功徳が「只」の心です。これが「皆同供養(かいどうくよう)」であり天地一杯に充満している道なのです。元来が天地と同根万物と一体であり、縁に依って作用が異なっているだけです。本は一つなのです。
 大切な食事だと一口に言いますが、実はこのように深く、広く、万事に及んでいますから特にこの心を大切にしなければいけないのです。
 
 
[一口為断一切悪。] 
 実際にいよいよ頂くに当たり、箸やスプンを手にします。食べ始めは事の始まりです。何事でも最初は儀式であり祈りです。初一念の善し悪しで物事の内容が決まるものです。ですから軽はずみにすべきではないのです。
 最初に口にする時、一切の悪をしないと誓うのです。具体的な事柄を思い浮かべると言うことではありません。真実な自分の心に背かないと言うことです。素直に、今今、法に従うことです。法とは縁であり人も含めた環境です。この時、既に自己が無く囚われがないのです。宇宙と同事の食事です。比べる物がないので最高です。最早悪はないのです。
 
[二口為一切善。] 
 二口頂く時、積極的に一切の善を為すと誓うのです。悪をしないだけではなく、みんな幸せになる為にどんな些細な善行もすると誓うのです。笑顔も善、挨拶も善行です。掃除洗濯、社会の仕事も全て善行です。主人や子供の帰りを待ち、「お帰りなさい。お疲れさまでした」と愛語で迎えるのも善行です。「有難うございました」と感謝の言葉も善行です。この時、既に自己が無く囚われがないのです。宇宙と同事の挨拶です。比べる物がないので最高です。最早善の善とすべきものはないのです。「只」の世界です。
 
[三口為度衆生。皆共成仏道。]
 何事でも物事が始まって三節目までは序分に当たります。今三口目を頂くに当たり、序分の終局です。まとめです。
 全身是れ食事の時、宇宙全体一に収まり、善悪、迷いも悟りも有りません。仏も衆生も本来空なので、宇宙と同事です。宇宙が一口に収まったのです。真実の一口は無限大と言うことです。是れが「為度衆生。皆共成仏道」です。何も言うことはなく、思うこともなく、天下泰平と言うことです。
 これが真実の食事です。真実の食事とは我を忘れて「只」食べることです。余念無く純粋に食べると言うことです。これ以上の真実は無いのです。
 
 ● 折水之偈(食後の辞) 
 
[我此洗鉢水。]
 食事はその支度から片づけまで水無くしては有り得ません。全て天地自然の恵みであり四恩のお陰です。今食事が終わり、自分達の器を自分達で綺麗にした、その僅かなお水さえも大切にし、全てを活かさなければなりません。実際の生活に於いて水一滴をも粗末にしない、ここが禅門の奥深いところであり、実際を重んずるのが本当の道です。そのことを体得するのが禅修行であり食事です。
 
[如天甘露味。]
 お椀を洗い終わった最後の水さえも美味しく頂き、この上ない満足を得たところです。比べたり不足の心が無ければ、全て宇宙大です。大満足と言うことです。何も無い心がこのように大きな満足となるのです。満身「只」水になればいいのです。「只」の心で頂けば全て天の甘露味です。
 
[施与鬼神衆。]
 しかし、何かに付けて不足の念を起こして貪っていると、やがて餓鬼道に落ちてしまい、食べられない運命にさらされます。そうした気の毒な者達に施すのです。「只」の心で頂くと大満足が得られる事を知って貰う為に、例え僅かでも与えるのです。道の人はこうした慈悲の心がなくてはなりません。鬼神衆もひとたび菩提心を起こして「只」の心を体得すれば即道の人です。一口の水を「只」頂けば甘露味を得ることが出来るからです。なにより大切なことは、鬼神衆に落ちないように、常日頃から心がけて、貪瞋痴の心を起こさぬ事です。そして布施・持戒・忍辱・精進することです。さすれば必ず諸天善神、諸仏諸菩薩が擁護し見守ってくれるのです。
 今は哀れみの心を以て鬼神衆に布施するのです。鬼神衆は一人で全てを食べようとして貪り、道の人は一つのパンをみんなで分かち合って満足するのです。
 
[悉令得飽満。] 
 大満足は大慈悲心となり、一切を救うのです。生きとし生けるものは皆、充分に満たされて不平の心が無くなるのです。不満や嫉みや貪りの心で生活すれば、即座に囚われて地獄への道に乗ってしまうのです。今、何事も「只」淡々とすることです。「只」の心が全てに満足し、全てを活かすのです。この世界は何一つ真実でない物はないのです。この事を本当に体得した時、大満足の人となるのです。
 
[?摩休羅細娑婆訶。]
 この世界は本もとそうでした。我々も何の囚われも無い素晴らしい存在でした。一人々々が満足し、今に安住していました。今、確かにみんな満ち足りているではないか。これ以上の喜びはない。これこそが神仏の願いであり理想世界でした。今達成されたのです。なんと素晴らしいことかと、喜びと感謝で終わったのです。
 
 ● 後唄文(まとめの辞)
 
[処世界如虚空。如蓮華不着水。]
 この世界は確かに有るのだが、縁に依って常に流転していて、一定の定まった物は何も無い。あたかも蓮の葉の水玉のように、葉も濡れず汚されず、水も玉のように美しく自在で決して付着したりはしない。今今、私達が生きている世界は、蓮の葉と水の関係の如く、その時、その様に仮にあるだけです。本来無我なのです。だから本来決して執着すべき物など無いのです。この有って無い、無くて有る「只」の様子を法と言うのです。これを人々で体得すれば、この世界は戦争も差別も無く、みんな平等に慈しみ合い助け合いによって、貧困も環境問題も自ずから解決され無くなっていくのです。みんな執着の有我を人権だとか権利だとか言っていよいよ固めているのです。本当は最も自然で囚われの無い自由が心なのです。本来無我であり「只」なのです。
 
[心清淨超於彼。稽首礼無上尊。]
 清いこの心は本もと有って無い、無くて有る不可思議な霊体は、一切を超越した最も清淨で最も素晴らしく無上である。従って私達の心は、これ以上悟るべき法も道も真理もない。だから即心是仏とも即心即仏とも言うのである。本当に有り難く尊いこの心。真実の道を心から限りなく敬い信じ奉る。稽首礼無上尊。
 
 人々分上豊に具われりと雖も修せざるには現れず、証せざるには得ることなし。(道元禅師)
 
平成十八年二月十二日
 
                    
                      希道 合掌